しろうと顧問こと始め
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素人顧問誕生
shige
2005年7月24日(日曜日) 00:12
堺中に転勤して、1年目は飛び込みの3担(3年生の担任)でした。色々あって、苦労しました。そして、2年目は待望の1年担当。残念ながら、担任は持てませんでしたが、明るく人なつこくて、すごくいい子達でした。
そして3年目。人事の関係で、私は、また、1年生担当になりました。去年の子達を、3年間持ち上がりたいと思っていたので、とても残念に思っていました。
そんなとき、演劇部がなくなるかも知れないという話が持ち上がりました。顧問をしていたのは、丁度、昨年一緒に一年生を受け持った国語の先生でした。それが、転勤でいなくなり、新しい顧問がなかなか見つからなかったのです。
「管理顧問でいいなら、やりますけど・・・。」
去年、お世話になった国語の先生へのお礼の気持ちと、演劇部の子達がとてもいい子達だったこと、そして、文化祭が終わった後は、ほとんど幽霊部員ばかりのパソコン部で物足りなくなった気持ちといろんな要因が重なって、決意をしました。
そうはいっても、演劇のことなど何もわかりません。クラス劇や学年劇を数回やったことがある程度です。逆に言うと、その頃の私の中では、演劇部は学芸会の延長でしかありませんでした。
結局、その年は、もう一人、女性の先生と一緒に担当することになりました。その先生は、以前、演劇部を持った経験もあるようでした。
いよいよ、部員達との対面です。こんな素人を顧問として認めてくれるだろうか?すごく不安でした。職員室の隣にある会議室に、2,3年生を呼んで、自己紹介をしました。
「今度、顧問になった重盛です。よろしく。」
「よろしくお願いします。」
あのシーンは今でもありありと覚えています。2年生のYが、真っ直ぐ私の目を見てくれていました。ホッとして、すごく嬉しくて、この子達のためにがんばろうと思いました。
そして3年目。人事の関係で、私は、また、1年生担当になりました。去年の子達を、3年間持ち上がりたいと思っていたので、とても残念に思っていました。
そんなとき、演劇部がなくなるかも知れないという話が持ち上がりました。顧問をしていたのは、丁度、昨年一緒に一年生を受け持った国語の先生でした。それが、転勤でいなくなり、新しい顧問がなかなか見つからなかったのです。
「管理顧問でいいなら、やりますけど・・・。」
去年、お世話になった国語の先生へのお礼の気持ちと、演劇部の子達がとてもいい子達だったこと、そして、文化祭が終わった後は、ほとんど幽霊部員ばかりのパソコン部で物足りなくなった気持ちといろんな要因が重なって、決意をしました。
そうはいっても、演劇のことなど何もわかりません。クラス劇や学年劇を数回やったことがある程度です。逆に言うと、その頃の私の中では、演劇部は学芸会の延長でしかありませんでした。
結局、その年は、もう一人、女性の先生と一緒に担当することになりました。その先生は、以前、演劇部を持った経験もあるようでした。
いよいよ、部員達との対面です。こんな素人を顧問として認めてくれるだろうか?すごく不安でした。職員室の隣にある会議室に、2,3年生を呼んで、自己紹介をしました。
「今度、顧問になった重盛です。よろしく。」
「よろしくお願いします。」
あのシーンは今でもありありと覚えています。2年生のYが、真っ直ぐ私の目を見てくれていました。ホッとして、すごく嬉しくて、この子達のためにがんばろうと思いました。
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演劇部以前
shige
2005年7月18日(月曜日) 16:54
世田谷の中学校から、町田の堺中に転勤してくるまで、私はずっと、バスケット部顧問でした。都大会にも2度ほど出場したことがありますが、それほど、優秀というわけでもありませんでした。
ただ、情熱だけは人に負けないつもりで、東京都の研究会に参加したり、1年365日のうち、350日くらい練習している、いわゆる「部活命」の顧問でした。もちろん、堺中でのバスケット部顧問になりました。
しかし、生徒と一緒に無理に動いているうちに足を痛め、堺中に転勤した頃は、朝、起きるとすぐに立ち上がれない状態になっていました。また、私が転勤する丁度前年、堺中はバスケット部が全国優勝するという快挙を成し遂げ、前顧問と私の指導力量の違いもあって、なかなかうまくいきませんでした。
そう言う環境と、怪我で、審判もろくに出来ない状態から、私は、バスケット部の顧問を1年で辞め、2年目は、週1回の「パソコン部」顧問になりました。まだ、MS−DOSの頃で、「ブロぽん」だの、「5たく」だので、オリジナルデータを作って、文化祭で公開すると、パソコン室は黒山の人だかりでした。
演劇部は、その文化祭で体育館の公演を見ていましたが、よもや、自分が演劇部顧問になるなんて、思いもしませんでした。そして、堺中へ来て3年目、いよいよ、運命の年を迎えます。
ただ、情熱だけは人に負けないつもりで、東京都の研究会に参加したり、1年365日のうち、350日くらい練習している、いわゆる「部活命」の顧問でした。もちろん、堺中でのバスケット部顧問になりました。
しかし、生徒と一緒に無理に動いているうちに足を痛め、堺中に転勤した頃は、朝、起きるとすぐに立ち上がれない状態になっていました。また、私が転勤する丁度前年、堺中はバスケット部が全国優勝するという快挙を成し遂げ、前顧問と私の指導力量の違いもあって、なかなかうまくいきませんでした。
そう言う環境と、怪我で、審判もろくに出来ない状態から、私は、バスケット部の顧問を1年で辞め、2年目は、週1回の「パソコン部」顧問になりました。まだ、MS−DOSの頃で、「ブロぽん」だの、「5たく」だので、オリジナルデータを作って、文化祭で公開すると、パソコン室は黒山の人だかりでした。
演劇部は、その文化祭で体育館の公演を見ていましたが、よもや、自分が演劇部顧問になるなんて、思いもしませんでした。そして、堺中へ来て3年目、いよいよ、運命の年を迎えます。
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